ー君に生きるのを手伝ってほしい。ー

聲の形』は、美しい映画だ。漫画家、大今良時先生が描くのは繊細な風景だけでない。人の心の繊細な部分、弱さや美しさを7巻という長くはないストーリーの中に描き切っている。

主人公の石田将也は小学生の時に転入してきた聴覚障害の女の子、西宮硝子をいじめた張本人として、自らも同級生にいじめられた過去がある。将也は自らが犯した罪の意識に苛まれる。そして壊した補聴器の弁償代をバイトで稼ぎ、お金を母親の枕元に置いて、将也は自殺を試みる。

しかし、同じくらい大変なことなら、かつて自分がいじめてしまった彼女に一言謝りたい。どんなに罵られようと恨まれようと、死ぬよりはいくらかマシだ。そんな気持ちで将也はかつて自分がいじめてしまった聴覚障害の女の子、西宮硝子と再会する。

今回は映画『聲の形』を見た感想を綴ろうと思う。僕は原作の漫画を読んだ上で映画を観た。この記事は原作や映画を観た人に向けて書くため、多分にネタバレ要素が含まれているハズだが、その点を予めご確認頂きたい。

将也は、硝子は、結弦は、八重子(西宮母)はどうすればよかったのか?

いったい彼ら、彼女らはどうすればよかったのだろう?

漫画を読みながら、映画を観ながら僕の心で浮かぶのはこの質問ばかり。いったいどうすればよかったのか?何が悪かったのか?

おそらく登場人物達もみんなこう思っていたに違いない。あいつが悪いと言う小学生の頃の将也。自分が悪いと言う高校生になった将也。昔も今も、自分が悪いという硝子。果たしてどちらが正しいのか?おそらくどっちも間違っているし、どっちも正しい。

将也の在り方は間違っていたかもしれない。でもそれを反省し、自分が出来ることをしてきた。僕が思うに、罪悪感という感情は最も人の行動力や喜びを邪魔する感情の1つだと思う。周りが将也の事を許せるのか?将也自身が自分の事を許せるのか?

そう。『聲の形』の登場人物はみな罪悪感を持っていた。いじめを止められなかったという感情。将也も、植野も、初めは西宮に寄り添い心配していた。硝子は自分の感情や考えをうまく伝えられなかった。ただ、それだけの事で起こった悲劇かもしれない。小学生だから仕方がないかもしれない。

しかしそれは決して「子ども=小学生」だからという問題では決して無い。事実、将也達は高校生になっても同じ問題を抱え続けた。西宮の母もどうしていいか分からずに苦しんでいた。子どもに辛くあたってしまった。しかし西宮の母・三重子は子どもを守るために厳しく在り続けたのだ。その姿勢を責めることは出来ない。

  • 自分なんかが会ってはいけない。
  • 自分なんかが幸せになってはいけない。
  • 自分なんかが友達になってはいけない。
  • 自分なんかが成功してはいけない。
  • 自分なんかが付き合ってはいけない。
  • 自分なんかが生きていてはいけない。

 

自分なんかが。

自分なんかが。

自分なんかが。

 

僕らもどこかでこう思っているかもしれない。

僕らはいつだって幸せに向かいたい

  • 将也は自らが犯した罪を償い、あの日実現しなかった「西宮と友だちになる」ことを夢見ていた。
  • 硝子は将也と友だちになりたかった。もっと強い自分になりたかった。
  • 結弦は姉を守りたかった。姉がかつて放った言葉「死にたい」を防ぐために。
  • 三重子は子どもを人並みにしたかった。娘達に強くなってほしかった。

みんな自らが思う幸せに向かって努力していた。みんな一生懸命だった。永束も植野も川合も。僕がこの漫画の好きなところは、登場人物がみんな一生懸命で、でも不器用で、そんなところが好きだ。

みんなちょっと不器用なだけ。

声を聞けても聞けなくても、僕らは絶望的に分かり合えない。

だから僕らは1つになりがたる。相手の事が分からない不安を無くしたい。相手がどう思っているのか怖い。

例えばエヴァンゲリオンもNARUTOもエウレカセブンも、多くの作品が1つになることを求めてもがく人がいる。身も心も1つになり、分裂していることへの不安を無くしたいと願っている。

しかし、残念ながら僕らは1つにはなれない。完全に分かり合うことなど出来ない(かもしれない)。

でも、分かろうとする努力は止めたくない。

映画を観てそう思った。だからぶつかる。だから怒る。だから喧嘩する。でもそれでもいいかもしれない。植野のように感情を好き勝手発露させ、相手を傷つけてもいいかもしれない。植野自身も傷ついてきただろう。植野ほど器用に見えて不器用なキャラクターもいない。

僕らは相手の感情は分かり得ない。だからこそ目の前の相手にきちんと向き合うべきだ。相手が何を考えているのか考えるべきだ。相手がいまどんな気持ちでいるのか。ときには言葉で聞いてもいいだろう。

でも言葉が無くたって通じ合えることもあるだろう。コミュニケーションは音だけではない。視覚もあるし、ボディランゲージもある。筆談でもいい。お互いが努力を止めず、分かり合おうとする努力を止めなければ、大丈夫。

僕は幸運にも健常者ではあるけれども、ある意味では僕ら現代人は耳が聞こえていない状態かもしれない。目も見えてないかもしれない。相手が困っているのに見て見ぬふりをするとか。きちんと相手と向き合えないのならば、石田達のようになってしまうのではないだろうか。

例えば僕自身が最近気を付けているのは、誰かと一緒にいる時にスマートフォンをむやみに触らないこと。僕らは食事をするとき、歩いているとき、誰かと話しているとき、相手の子を観ているだろうか?ちゃんと相手の話に耳を傾けているだろうか?もし見てなかったとしたら、聞いていなかったとしたら、将也や硝子のようにお互いのことをわかりあえずぶつかってしまうかもしれない。

映画『聲の形』の来場者限定ブック

TOHOの映画館に行ったら貰えた。来場者限定の描き下ろし漫画。今回は西宮の母・三重子のショートストーリー。泣けるマジで。

映画を観た後に改めて漫画『聲の形』を読み直した。西宮母と石田母が酒飲み まくって談笑してるシーンがなぜか泣ける。

 

自分の気持ちを素直に表現できない。相手の気持ちが分からない。そんな人に読んで欲しい作品。

 

短い作品の中に多くの学びが得られる漫画。何度も何度も読める漫画です。

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来場者特典のミニクリアファイル。かわいい。

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来場者特典の小冊子漫画。西宮母・三重子のショートストーリー。泣けます。