映画「青天の霹靂」を観た。場所は六本木シネマ。以前も来たことはあったけど、何を観たかは覚えていない。

そして6月1日。別の友達ともう一回「青天の霹靂」を観た。2回観ても全然問題ないと観る前からわかっていたので、全く気にしなかった。今年に入ってから、同じ映画を複数回観ることに抵抗がなくなった。

あらすじ

売れないマジシャンである轟春夫(大泉洋)はみじめな人生に嫌気がさしている。ある日、20年連絡していなかった父親の訃報が春夫の元へ届く。ホームレスをしていた様子の父親のすみかから自分の写真を見つけ、思わず涙する春夫。

「どうして俺なんか生きてるんだ!」春夫がそういったとき、空から稲妻が落ち、春夫は40年前の浅草にタイムスリップしてしまう。

そこで春夫は父・轟正太郎(劇団ひとり)と、かつて自分を捨てて出て行ったと聞かされていた母・花村悦子(柴崎コウ)と出会う。

「おふくろは、親父がほかに女を作ったから出ていったんじゃないのかよ」誰からも愛されていないと感じたまま生きてきた春夫が、自身の出生の真実を知る時、本当の愛の形を知る。

 

感想(ネタバレ)&想う事

1回目はウルッと来た程度で泣かなかったが、2回目は思わず涙をこぼしてしまった。映画で泣いたのは人生で初めてだった。正直泣くとは思っていなかったので、自分でも驚きだった。

今まで生きてきて、大好きな漫画を読んでもアニメを観ても、感動すると評判の本を読んでも泣いたことはなかった。家族と一緒に映画を観て、母や姉がボロ泣きしている中、僕は何の動揺もなく映画を観る。

そんな僕を観て、母や姉は「お前は本当に血も涙もない奴だな」と言った。自分でもそう思う。

 

泣くのはかっこ悪いとどこかで思っていたんだと思う。でも、実は何かを観て感動して涙を流せる人が羨ましいと思っていた。

現在における春夫。バカにされたくなくて、みっともないと思われたくなくて嘘をついたりごまかしたりする。売れた後輩との下りやスーパーの買い物にも見栄のようなものが見え隠れしていた。

そんな春夫のように、人にばかにされたくないとかかっこ悪いと思われたくないと、どこか無意識で思っていたんだと思う。顕在意識では「いいな」とは思ってみるけど。

 

でも、Self Training Programに参加する中で、そんな「鎧」を着る必要はないんだということを教わり、それをここ2か月意識するようになっていた。人は誰でも傷つきたくない、バカにされたくないから、自分の弱みを見せないところがある。僕は見栄っ張りだから人一倍そういう気持ちが強いと思っている。

 

物語中盤。ひょんなことから父とコンビを組んでマジックをすることになった春夫。喧嘩漫才という芸風と、当時は誰も見たことがないスプーン曲げなどのマジックで人気を高めていく2人。そんな中、母・悦子が倒れて病院に搬送される。

「胎盤剥離」正太郎は医師にそう告げられる。つまり「息子(春夫)を産んだら母は死んでしまうかもしれない」と。春夫(大人)はそれを知らない。

その後、すっかりやる気をなくした正太郎に、春夫は詰め寄る。やる気あんのかよと。言い争いの中、正太郎は「悦子が死ぬかもしれないんだよ」ということを叫んでしまう。

春夫はその意味をすぐに理解できない。母はずっと前に俺を捨てて家を出ていったんだと聞かされていたから。

「つじつまが合わねえんだよ!」今まで、自分の人生がみじめだったのは、父や母のせいだと思っていた春夫。父は浮気して、母は自分を捨てて出ていった。自分は親から愛されていない。だから俺の人生めちゃくちゃなんだよ。

でも、それは違うと知ってしまった。でも春夫はそれを認めたくない。認めたら、今までの人生はなんだったんだ、ということになるから。人のせいにしていたのが、できなくなってしまうから。

 

そこで僕はぐっと来たんだけど、どこかでブレーキがかかってしまった。たぶん無意識にまだブロックをかけたんだと思う。今日は隣に女の子も座っているし。そういう考えがよぎった。

でも、そんなことはどうでもいいから、目の前の映画と、春夫の気持ち、悦子の気持ち、正太郎の気持ちを考えてみた。感情移入してみた。それぞれの人生、未来を想像してみた。そうすると自然と涙が出てきた。

 

正太郎は、悦子に紙ナプキンで作ったバラを贈る。それを悦子は「素敵」と言う。本物になろうとして、もがいて。まるで自分のことのようだと春夫は思う。病室にて、春夫は「悦子さんは、息子にとって生きる理由です」そう告げる。

たぶん、その瞬間から春夫は生まれ変わった。父親、母親の愛情を感じられるようになる。顔つきも声も変わった。

今まで、それが愛情表現だったと気付けなかったものがたくさんあった。父親が「ほかに女を作って母は出てった」それも春夫を想ってのことだった。春夫を生んで、母は死んだんだよと言ったら、春夫はまた罪悪感と責任を抱えながら生きていくことになっていたかもしれない。でも、それが正解なのかはわからない。

父親がラブホテルの清掃員だったということを、春夫はバカにしていた。でも、清掃員は融通が利くからという理由で選んだものだった。悦子が死んだら、一人で春夫を育てていくことになるから。

全て春夫のためだった。でも、春夫はそれに気づくことが出来なかった。勘違いだった。

全てを知った時、春夫は両親の愛情をありのまま受け入れることができるようになる。それが、物語の最後をしめくくる言葉に表れたんだと思う。

 

僕が正太郎の立場に立った時、同じような事が出来るだろうか。人にバカにされても、自分の人生を犠牲にしても、息子のために生きていくことができるだろうか。正直、今のままでは出来る自信がない。でも、まだそれでもいいんだと思う。

人は勘違いをする。自分の都合の良いように考えてしまいがちだ。親からの愛情表現に気付けない事が、きっと数えきれないほどある。

 

原作も読んでみようと思う。文庫本も出てるっぽいね。